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「愛なくして」パンフレットより抜粋  
小さな奇蹟 (精神文化の発展を願って)
                                                  遠藤 久仁子
                                                    (映画「愛なくして」製作二人だけの劇場セザンヌ主宰)

 新劇俳優として日々多くの悩みをかかえながら(劇団維持・動員苦等々)、それでも良き作品を産み出し続けたいという一抹の夢を胸に秘め1999年8月1日、勇気を奮い起し、「もう映画を撮ることはないでしょう」と、おっしゃっておられた高林陽一監督にお会いすることにした。8月太陽のジリジリ照りつける中、無理にも近いお願い事を胸に秘め、鴨川沿いの土手、私の思いは伝わるのであろうか?正直に現在の私の心情をお話しなければ・・・。午後1時京都ロイヤルホテル喫茶室にて久しぶりに高林陽一監督にお会いすることになる。「関西で無名ながらコツコツと生活苦を背負い舞台を守り続けている人達がいます。舞台は一瞬のうちに消えてなくなる世界です。ですから何よりも尊いものと信じていますが、一作くらい映像に残る作品があっても良いと考えていますし、関西新劇俳優の姿をどうしても映像にとどめておきたいと考えております。全く金銭的余裕はありませんがなんとか皆さんにお願いして実現したいと考えております。」静かな口調で監督の言葉がかえされた。「どんな内容の作品をとお考えですか?」「生命の尊厳・人間の生と死についてふれた作品を切に望んでいます。」等々。2時間近くの会話のやりとりの後、映画を撮っていただく承
諾を得ることができた。私にとって夢のような、思いもかけない出来事、小さな奇蹟の始まりである。これより監督はシナリオ作成作業に入ることになり、私は生れて始めての経験映画製作者としての具体的な活動に入ることになる。が・・・、勇気を奮い起こし監督にお願いにあがったものの、新劇俳優としてのみ活動を続けてきた私にとって映画製作はまったく未知の世界である。本当に製作費を調達できるのであろうか?共に出演していただく俳優さん達も皆貧乏暮しである。私は単に夢を追い続け、監督や協力をして下さる方々にご苦労をお掛けすることだけに終ってしまうのではないだろうかと不安な夜が続く中、コツコツと映画製作の準備に取り掛かった。まず二人だけの劇場セザンヌ観客の皆さんに映画製作のための募金のお願いを始め、次に一般の方々よりも募金を募ることにした。高林監督に関しては当初よりボランティアにて参加していただくという有り難いお言葉をいただき、出演者に関しても全員ボランティア参加の承諾を得ることができた。徐々に何かが動き始めている。「映画を製作するということは身体に杭を打ち込むようなものである。」とあるプロデューサーの言葉を思いおこす。私の苦労なんて微々たるものである、先のことを考え
る前に今できることから始めようと自分に言い聞かせる日々である。2001年12月シナリオ完成、2002年1月シナリオ関係者に配布。2月・3月シナリオリハーサル。2002年4月いよいよ待望の撮影開始である(撮影に関してはゼザンヌホームページhttp://www.gocities.jp/cezanne1983/、愛なくして撮影日誌に詳しく記してある)そして2003年3月20日待ちに待った初号試写を迎えることができた。私にとって小さな小さな、そして大きな大きな奇蹟である。
 初号試写を迎えるにあたっての3年半の歳月、セザンヌ観客の皆様、一般の皆様、友人・知人より思いもかけず暖かい励ましのお言葉を添えられた多額の募金を頂戴。高林陽一監督、撮影監督としおかたかお氏及びスタッフの方々、出演者の皆さんの並々ならぬ協力、各方面の皆様の撮影協力、宣伝協力、高林陽一プロダクション、ムービーワークショップ、ビジュアルアーツ専門学校制作協力を得て2003年3月、高林陽一脚本・監督映画「愛なくして」は完成した。そして映画「愛なくして」の完成は私の人生にとって偉大な哲学書となり私達の心の宝石となる。人は支えの棒があり始めて成り立つ。人は一人では何もなし得ないこと、そこに同じ意志を持つ仲間が在り、励ましの言葉が在り、思いやりの行為が在り、人を信ずる力が在る。たとえそれらのものが人生に於ける一瞬の瞬間であるにせよ、その瞬間を生きる力を与えて下さいました多くの皆様の支えのお心を大切に今後も文化世界・精神世界の発達を願い歩み続けて参ります。
沢山の御協力を心より御礼申し上げます。



高林 陽一
 2000年8月1日午後3時、京都ロイヤルホテル1階のコーヒーラウンジで、私は新劇女優で、同時に「劇団二人だけの劇場セザンヌ」の主宰者でもある、遠藤久仁子さんと逢った。その時、遠藤さんの口から出た言葉は、「劇団で映画を創りたいのですが、御協力願えますか」というような主旨の事であった。突然のことに、私はどう返事をしていいものか、自分の中で、言葉を探していた。遠藤さんと云えば、九州の高校を卒業すると同時に、かねてよりの希望であった新劇の女優を目ざして京都へ出て来て、映画監督でもあった小野登氏が主宰する劇団「すみれ座」に所属、それがスタートで、その後、独立して、ユニ
ークな女優として、さまざまな演劇活動をして来た人である。その人が、自分の劇団で映画を創りたいという。色々、話をしていく中に遠藤さんが、「関西では苦労しながら地道に活動している役者さんが沢山おられます。その人達の姿を映像にしてとどめておきたいのです」と、言われた。私はこの言葉に、何かしら胸に熱いものが、こみあげて来るのを感じて、この話には無条件で協力しようと思った。遠藤さんの中にある、熱い思いが、私にも伝わって来たのである。名声のためでもなく、営利のためでもなく、売名のためでもなく映画を作る。それは遠藤さんが20年前から、京都の円山公園のしだれ桜前で、毎月1回、続けて来られた野外公演を支えている遠藤さんの表現活動に対する情熱と同質の、遠藤さんでなければ出て来ない発想である。私は久しぶりに、私の中にまだ残り火のように残っている、映画への想いが、よみがえって来るのを感じた。1986年に、「魂遊び ほうこう」という映画を撮って以来、私は映画を撮っていない。15年間の間、私は自分の中に“映画を撮りたい”という想いを、何故か持てなかった。それだけ「魂遊び ほうこう」という映画は、私の中の“映画への想い”を充たしてくれたのかもしれない。この次の映画は、何を撮ろうという、あの、ときめきにも似た映画への想い。私は、遠藤久仁子さんと話を重ねるうちに、その想いがよみがえって来るのを感じていた。私にも、次の映画があったのである。こうして「愛なくして」は始まった。もし、あの時、遠藤さんがあの一言を言わなければ、私は何とかかんとか口実をもうけて、この映画作りを、お断りしていたかも知れない。遠藤さんの中にある、熱い思いが私の映画への熱い思いを呼びさましたのだ。「苦労しながら地道に活動している役者さんたち」の姿を私も、自分の映画に撮りたいと思ったのである。私が、初めて遠藤さんの舞台を見たのは、1985年2月9日、京都のハイドンという喫茶店で、ハイドンサタデーシアターという公演があった、その時である。その頃は、たしか「三人の会」という劇団であった。その翌年の1986年の4月に「班女」という舞台も見せてもらった。その頃から、現在に至るまでに共に舞台をやって来られた、浜崎満(現:麿吉)さんの「審判」公演を共に歩んで来て、その頃から劇団名を「二人だけの劇場」と改めた。この命名は作家の藤本義一氏だと聞いている。そして自らは1983年以来、円山公園の野外公演を持続して、本当にユニークな、公演活動に生きて来た本物の演劇人である。その、たゆまぬ創造精神に触れなければ、私は「愛なくして」は作っていなかっただろう。人生とは不思議なもので、多くの人と接し、交わりを持ち、自他共に友人として認めていても、1つの熱い思いを共有する人というのは稀である。遠藤久仁子さんと私は、それまでは女優と観客という関係に過ぎなかった。私が見る遠藤さんは、舞台で何かを表現している1人の女優さんでしかなかった。舞台以外の場所で、こうして逢うのは、この時が始めてであった。そしてこの日私は、遠藤さんのこの映画に対する熱い思いを、共有することで、1つの世界を創作することが出来たのである。映画「愛なくして」は、こうして、私の中で新しい映画としての炎を燃やし始めた。顧みれば、50年の映画人生である。だが私の映画は、5本の作品を除いては、自分で創りたいから創るという、いわゆる自主製作か、それに近い映画であった。いわゆる、大象娯楽として、作れば儲かる映画、いわゆる商業映画として作ったものではなく、むしろ画家がキャンバスに自由な色を塗るように又、詩人が自分の思いを自由に詩に書くように、映像で私自身の内側にある、さまざまなイメージを表現して来たものである。人は、これを実験映画と云い、又、前衛映画と云い、時にはアンダーグラウンド映画と呼んだ。観客を意識して作ることより、まず自分自身の表現活動として制作する。極端な言い方をすれば自分自身のために作るといってもいい、そんな映画が多かった。だが、表現の本質というものは、そういうものである。誰かのためにするものではなく、まず、自分自身のために、どんな媒体(メディア)でも存在するのではないだろうか。映画「愛なくして」も又、そういう私の長年の映画の流れの中で創った映画である。私は今年72才になった。72才には72才のイリュージョンがある。それは「死」のイリュージョンだ。日本の男性の平均寿命は78才だという。平均寿命まで生きたとしても、後、6年である。そして、その間健康で五体満足でいられるかどうか、わからない。色んなことを思う中で、「死」について考えることが多くなった。私はこの映画の中で、多くの死について語りたいと思った。それが、今この映画を作る私の自由な精神の現れとして見えてくればいいと思った。人が生きるということは、1日1日、死に向って行くことでもある。どんなに若くても死は確実に存在している。死を恐れ、拒否しても、それは人間である以上、不可能なことである。「人は何故死ぬ」、この永遠の問いかけに答えるには、私は私の今の心情で等身大の映画を作るより他に方法はなかった。20代には20代のイリュージョンがある。そこには恐らく「死」のかけらもないであろう。30代.40代、50代、60代といま顧みて、つくづく思うことは「私の生きて来た70年って、一体何だったのだろう」ということである。自分が20代の時、自分が70才になることなど想像も出来なかった。映画作りに一生懸命になり、毎日毎日を、映画、映画と明け暮れていたあの日々、自分がやがて70才になるなどとは、考えもしなかった。人生とは残酷なものだ。死によって愛する者を奪い、人を孤独の淵に追いやる。気がつけば72才である。人生では得るものも多いが、失うものがもっと多い。知らぬ間に周囲から誰もいなくなって只1人ということもある。私は、この映画で、故郷を始め、さまざまなものを失う人々の姿も私の心象として画いた。72才のイリュージョンとして・・・・・・。そして、それはやがては誰もが経験する心象でもある。私は、今この映画を撮って、本当によかったと思う。2000年8月1日に遠藤久仁子さんに初めて逢ってから、もう4年の月日が流れている。この4年、準備、テスト、シナリオ制作、リハーサルと日を重ね、そして2002年4月25日にクランクイン、10月末にクランクアップ、編集、アフレコ、音楽制作、ダビングと全作業を終了したのが、2003年3月であった。多勢の人々が1本の映画を、手塩にかけて作る喜び、私の中に久々に、大きな喜びと安らぎが、よみがえって来た。ダビング終了の間際、最後の音楽にのってエンディングタイトルが映り始めると、遠藤久仁子プロデューサーの目に涙が光った。



高林陽一の世界
                                                                     品田 雄吉  (映画評論家)

 実に久しぶりに、高林監督に会った。平成15年7月初旬のことである。
 新作映画「愛なくして」の試写のお知らせをいただき、その東京の会場に、高林監督がわざわざ京都からお出でになった。
 「愛なくして」は、高林監督の、16年ぶりの新作だという。ということは、多分、それ以上の年月をお目にかからぬまま過ごしていたのだろう。久しぶりにお目にかかって、ちょっと言葉にならないような懐かしさが私の心に満ちた。
 新作の「愛なくして」で描き出されていたのは、まぎれもない高林陽一その人の世界だった。私がかつて馴染んできた、懐かしい高林陽一の世界が、そこにあった。長い間、お目にかかっていなかった空白が、一瞬のうちに消えたように感じた。
 この作品は、京都で演劇活動をしている遠藤久仁子さんの依頼を受けて、高林監督が脚本と監督を手がけたものだと聞いた。何よりも、手作りと呼びたい感触をもった作品になっていた。8mm映画からスタートした高林監督は、ATG(日本アート・シアター・ギルド)などで本格的な劇映画を発表しながらも、つねに実験的自主映画を作っていたときの初心を忘れない作家であり続けた、と私は思っている。決して物慣れたプロにならない潔癖さのようなものを私は彼の作品から感じ取り続けてきた。多分、それが、良くも悪くも高林陽一を普通の商業監督にしなかったのだと思うし、そこにこそ彼ならではの存在理由があったのだと思う。私は確固とした作品歴を持つ高林陽一が16年間も映画を作らなかったことに、深い感慨を覚え、さらに深い感動をすら覚えたのであった。
 「愛なくして」は死をテーマにした映画だという。それもまた、いかにも高林陽一らしいテーマだといえるだろう。私は私なりに、高林陽一が描く世界は、諸行無常の世界なのだ、とずっと思い続けてきた。しばしば私は、彼が描くエロスの世界(たとえば「往生安楽国」「西陣心中」など)に虚無の匂いを嗅ぎ、生きることと死ぬことが等価にとらえられていることに不思議な感動を覚えたのであった。どうして高林陽一は、かくも早くそのような境地の到ったのだろうか。私は安易にも、京都の古い町並みと、高林陽一の「悟り」を無理に結びつけて、その答えを見出そうとしたりした。
 「愛なくして」では、さまざまな人物が、さまざまな風景の中に現れる。風景は人物たちの生き方とは無縁のように静謐で美しい。そして彼らは、「諸行無常」という細く長く終わりの無い道をさ迷い続けているように見える。
 高林陽一が1960年に脚本・監督・撮影に当たった8mm映画「石っころ」では、一人の男が河原で石っころをただ運び続ける。その果てしない反復行為から、私たちはさまざまな意味を読み取ることができるだろう。いや、何も読み取らない自由すらをも持つことができるだろう。私はそこに仏教的な諦念を感じ取ってしまった。つまり、諸行無常である。
 高林作品では、ある行為の反復が、そのことの意味を変化させたり、あるいは深化させたりしないように見える。「愛なくして」の若い男女は抱き合ってキスをし続けるが、それが意味的に変化することはない、という風に私には見えた。それは、「石っころ」の石運びと同じような反復であり、繰り返しであって、それに何かを意味を付与するのは、見る側に委ねられる。
 むしろ、この作品で明確に見えるのは、安楽死を望む老人についてのスケッチだろう。高林監督自身を反映させたキャラクターだという老人は、死にたがっている。監督は、死に望む人間に、ひそかな限りない共感を抱き続けているようだ。
 遠藤久仁子が演じる未亡人の生きる苦悩は僧侶によって諦念へと導かれていくように思われる。ここでも対話の彼方に諸行無常が見える。 映画監督活動16年の空白は、高林陽一監督に何をもたらしたか。私には、映画作家としてスタートしたときから高林監督が抱いていた世界観がいっそう研ぎ澄まされたように見える。
 それにしても、妥協のない、頑固な映画作家である。当たりの柔らかい、いかにも京都人らしい洗練と奥ゆかしさを感じさせる人だが、実は芯の強い人間なのだ、と、私は思う。
 「愛なくして」で、高林陽一監督は、自分が言いたいと思っていたことをすべて言い切った、と思っているのではないだろうか、と私は危惧する。私としては、まだ言い足りないことがたくさんあって、また映画を作りたいという気持ちになってくれることを心から望んでいるのである。



静謐に描いた愛と死 −高林陽一監督の新作『愛なくして』を観て−
                                                    人見 嘉久彦
                                                        (劇作家、映画評論家、元大阪芸術大学教授)

 50年以上も映画を見続けてきたものにとって、最近の作品はやたらに特撮、それも電子処理を施した目まぐるしいものが多い。第75回アカデミー賞6部門をとった『シカゴ』も観たが、役者も監督もすばらしい仕事をしているのだが、やはり目まぐるしさには変わりはない。この『愛なくして』はそうした近年の、老年者には眼がチカチカするような、音響効果の無闇に大きい一群のものと正に対極にある、注目すべき静謐な秀作である。 もともと高林監督は70年代から80年代にかけて活躍した映画作家。当時の「日本アートシアター・ギルド」を後盾に芸術的な低予算の映画をつくろうとした意欲的な映画作家たち―たとえば実相寺昭雄、寺山修司、黒木和雄、東陽一、一世代若いが森田芳光、大森一樹などのなかでも、大森とおなじく京都出身で、とりわけ8ミリや16ミリの小型映画で鋭く実験的な映画をつくって頭角を表していた。小型映画のカメラは通常の35ミリのより、より自由に、より奇想天外な動きもすることが出来る。高林は8ミリでは『石っころ』16ミリでは『砂』などが国際的にも高い評価を受け、35ミリでは『本陣殺人事件』三島由紀夫原作の『金閣寺』『往生安楽国』『西陣心中』などの異色作を生み、『餓鬼草紙』ではマンハイム国際映画祭グランプリを、『金閣寺』は芸術選奨文部大臣新人賞を受けている。それが80年代に『魂遊びほうこう』を撮ってからは何故か映画から遠ざかっていたが今回、この作にも顔を出している女優で劇団を主宰する遠藤久仁子の強い要請で再びメガホンを取ったものだ。遠藤の名前が出たので記しておくが、筆者が遠藤さんを知ったのは拙作の『手紙』という戯曲に、やはり今度の映画にも出ている浜崎麿吉さんとともに出演してくれて以来で、彼女は《二人だけの劇場・セザンヌ》なる劇団を京都でつくり、独特の舞台を実に根気よく続けてきた。ご主人は知るひとぞ知る関西棋院の高段者。彼女は宗教的なものにも関心があるようで、その誠実さと粘り強さには頭が下がったものだ。高林監督が生家である西陣の帯屋を出て久しぶりに撮る気になったのも、この映画のプロデューサでもある遠藤さんの一途な人柄にもよるのだろう。今回のも35ミリで、《死と人間の尊厳》を描きたいという監督は本来自在に飛躍もできる手をわざと自分で縛りつけるようにして、カメラは対象を凝視して動こうとしない。対象の奥深くひそむ何物かを(この映画では生と死と愛を)見極め、掴みだそうとするかのようにー 京都、西陣も勿論出てくるが、日本海に添った小浜とその近くらしい廃村が主な舞台。登場する主な人物には個人名がなく、老人(藤沢薫)医師(木元としひろ)僧(栗塚旭)未亡人(遠藤久仁子)男(竹橋団)村の長老(浜崎麿吉)大道芸人(稗田邦隆)着飾った娘(遠藤博圭)夫(塩見順一)妻(椋木春菜)患者(坂本剛)若い男(中武題)若い女(大平由佳)ほかにも警官(村田稔)看護婦(米沢梢)といった具合い。彼あるいは彼女の間に、劇的なつながりが僅かにあるのは安楽死希望の老人と、その友人で罪になるのを覚悟で望みを叶えてやろうとする医師の二人ぐらいで、だから登場人物の間の劇的な葛藤も派手なドラマも一切起こらない。そのかわり、カメラは静かに、しかし執拗なまでに独りひとりの人間と向かいあい、じーっと追い続け、その内面までを暴くように食い入り、捉えて離そうとしない。静謐な秀作と言ったのは、ここのことである。
 映画はまず最初の、跨線橋の階段や道をゆっくりと、だが危なっかしい足どりで歩いていく老人の表情で異様な気分を漂わせ、観客を一気に虜にしてしまう。『迷うて・・・迷うて・・・見失うて・・・時間が止まり・・・いくら歩いても、景色は変わらず・・・』老人はこの言葉を呪文のように繰り返しながら重い足どりで歩いているのだが老人の眼が外界の何も見ていないのだ。では何を見ているのか?自分のなかの「死」の観念をのみ見ているのだ。この老人を演ずる藤沢が実に巧い。京都の劇団京芸のベテラン舞台役者で主宰者でもあるが、先日も同じ京都の「人間座」に客演して人形師の一生を力強く、だが繊細に彫り上げてみせた。今度もこの安楽死を友人の医師に頼む老人の内面を的確に演じて見せた。カメラがこの老人の表情に食いついて彼の実存を暴くのと同様、夫を失って悲嘆にくれる未亡人にも、ボストンバック片手に死場所を求めてさまよっている中年男にも、廃村に等しくなった村の長老にも、その表情というよりカメラ(「魂遊びほうこう」の、としおかたかお)は一皮剥いた内部に侵入しようとする。それは、かのシュルレアリズムの彫刻家ジャコメッティが1956年に「ヴェニチァの女V」を製作した折りに「消すこと、内部に向かってどこまでも消していくこと、そして何が残るか見よう」と宣言し異様な女性像をつくりあげたように。廃村風俗に触れたものにはさきに映画化もされた小説『廃市』もあったが、この作品の特色はスイス生れの彫刻家の言葉がさらに加わった意欲作と受け取れるようにも思う。 老人、ひと足ごとに『地獄、極楽、地獄、極楽』と呟きながら、最後は海岸から海に身を投ずるボストンバックの男、『今日入れば、もう生きて出てくることはないだろう』と都会の病院へ入っていく癌らしい青年などを負の実存とみれば廃村の長老に『もう祭りは十年も前に終わったんだよ』と言われながらも無人の神社の境内で《がまの油売り》をやりつづける若者、詩に感動し愛を語る若い男女は正の実存というところか。或いは見方を変えれば逆かも知れない。達観しきった僧(栗塚も「くるみ座」にいて筆者とは旧知だが、新撰組の土方をテレビでやってから有名になったが、最近とみに風格が加わった)は別にしてその中間にあるのが『何もかも夢をみているよう』と哀しみを噛み締める未亡人、マンションのローンの心配をする夫婦、着飾った娘などなどであろう。しかし、始めに言ったように、これらの人々は例えばインスタレーションのように其処に配置されているだけで、通俗的な意味で劇的に絡みあうことはない。それでいて、ジャコメッティが言った深い意味で夫れ夫れの内部に存在する何かを十分劇的に見せてくれるのが凄い。ラストで海に沈む大きな赤い太陽を背景に愛し合う若者たちのくちづけで締めくくったのは、死と隣りあわせた正の実存を描いてなお、監督や製作者が望んだ愛への希望であろうか。付記しておくが高林監督のお好きな映画はアラン・レネの『去年マリエンバードで』と日本映画では小津安二郎の『東京物語』だそうだが、そう思ってこの新作を観れば成る程と納得がいきそうだ。



・・・・高林陽一的なるもの
                                                                      佐藤忠男 (映画評論家)

 久しぶりの高林陽一監督作品である。個人映画の出身できわめて個性的な作品を発表しつづけてきた映画作家だから、久しぶりだからといって違ったなにかを予想して見に行ったわけではないが、少しも変わってはいなかった。というより、この作品では作者は余計な要素を削ぎ落し、削ぎ落ししてついに高林映画的なるものの窮極の形に至ったかのようにさえ思える。
 登場人物はたくさんいるが、とくに誰が主人公とも言えない。その人物たちの多くは相互にあまり関係なく画面に現れて、殆んど他に人のいない風景の中をさ迷う。他の登場人物と出会って現在の心境を語るということはあるが、そこで葛藤が生じてドラマが進行するわけではない。というより、ドラマの進行という通常の劇映画の常識を断念したところにこの映画は成り立っている。ドラマは会話であり、相互に相手の反応を手掛りとして自分を進行発展させてゆくものだが、この映画では、いちばん若くてまだ未来に希望を持っている恋人同士のカップルの会話を別として、セリフは殆んど独白のようなものである。相手がいる場合でも基本的にそうで、相手はただ、自分の独白を確認してくれる証人であるにすぎないようだ。すぎないなどと言うと否定的に思われるかもしれないが、そうではない。自分の独白を確認してくれる証人がいるということは大切なことで、それがあるいは愛ということなのかもしれない。それ以上の過剰なものを人間や人生に求めず、ただそれだけを純粋にきわだたせ、それ以外の要素を削りに削ったところに、それ、高林映画的なるものの窮極の形が見えてきたのではないだろうか。
 まずひとりの老人が現れて、桜が美しく咲く野をひとりでえんえんと歩く。その桜の美しさに心を動かされているわけではなく、彼の頭を占めているのは友人の医者から安楽死させてもらうことだけである。もはや生きることに関心を失った彼の心境が、内心の独白で美しく語られる。生きることに無関心になっても、その心境を美しく語ることができるし、映画的に美しく表現できるということはどういうことだろう。
 友人の医者は困る。困るが老人の申し出を受け容れようとする。実際にそうするのかどうかは分からない。とりあえず、止めたり逃げたりするのではなく、友人の言葉の聞き手としてその証人になっただけなのかもしれない。絶望という“死にいたる病”にとりつかれた人間に、愛をもって応待するにはこれしかないのかもしれない。
 あるいは、過疎で殆んど人のいなくなってしまった村の神社の境内でガマの油売りの口上をやっている若い芸人がいる。最後の村民らしい羽織をはおった年輩の男が、もう祭はとっくに終ったのだからやめなさいと忠告するが、自分にとってこれを止めることは死ぬこととおなじだと言って芸を続ける。これも互いに信条あるいは心情を言っているだけで相手にはなにも影響を及ぼさないから会話というより二重の独白に近い。ただ、影響は及ぼさなくても、互いにいちばん言いたいことを言って、それを聞いてくれる相手がそこにいたということはかけがえのないことである。
 この映画では登場人物たちは葛藤をしないし前進もしない。前方には死が待っているだけだと分かっているからである。ジタバタはしないのだ。ただ、死を意識してしっかり呼吸をととのえようとする者の、その気持をしっかり見とどけてくれる人はいてほしい。人間の出合いということの重い意味はそこにある。高林陽一は、人がジタバタする様子にあまり関心は示さない。それよりまず、愛を思う。そして愛とは、ある思いを共有することであり、見守ることであり、受け止めることである。この映画はそういうイメージの純粋結晶を求めて、余計なものは削りに削っている。そしてこれだけが残ったのだ。これはだから、高林陽一が一九六〇年前後に小型映画よる日本のインディペンディント、いわゆるアンダー・グラウンド派のエースとして知られるようになった頃からの仕事のひとつの里程標と言える作品だと思う。初期からあった仏教的情念はここで非常に澄んだものとなった。


「愛なくして」ご鑑賞いただきました方々よりの感想  
  • 一般・有志の方々の募金協力により製作された映画であると聞く。このような地味な作品が多く日本で製作されることを願う。 K.T様
  • 生きながら死んでいたくない。私は私の人生をより良く生き続けたい。  Y.M様
  • 人は生きて地獄・極楽の世界を体験する。やはり極楽を夢見て死の世界を迎えたいものだ。  T.E様
  • この映画は一度では理解しにくい映画だと思う。3度観て自分の中で生涯残る映画となった。  H.O様
  • 通常のドラマ作品でなく、一見理解しにくい作品であるが、その裏に多くの現代社会への警告を見た。  S.S様
  • 人はいつか老い、死の世界へ旅立つ。自分の存在もいつの日か無に帰ることを考えつ時、少しは人に自分に優しく接したいと願った。                                                                                      M.H様
  • 悲しみを背負いながら生き続ける人間に乾杯!  Y.K様
  • 愛をなくした時、人は絶望を垣間見る。愛なくしては人は生きられないのかもしれない。それがたとえささいな愛であろうとも・・・  N.S様
  • 生きる力が弱くなる時、人は希望を見失う。死を否定するのか、肯定するのか、人間としてのテーマがこの作品にある。  T.O様
  • これ程に人間の命と心の重さを感じさせるものはない。  M.H様

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二人だけの劇場 セザンヌ
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